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高齢化社会が急速に進行する現代において、認知症患者の増加は避けがたい社会的課題となっています。日本では2025年には認知症患者が約700万人に達すると予測されており、多くの家庭や介護施設、医療機関がこの課題に直面しています。認知症患者へのケアは、単なる身体的な支援にとどまらず、精神的な安定や尊厳の保持といった側面も極めて重要です。しかし、現場では認知症の行動・心理症状(BPSD)に対応することが難しく、介護職員や家族にとっても大きな負担となっています。
こうした中で注目を集めているのが、「ユマニチュード」と呼ばれるフランス発祥のケア技法です。ユマニチュードは、「人間らしさを大切にする」という哲学を基盤に、認知症患者との信頼関係を築き、穏やかで安定したケアを実現するための具体的なアプローチを提供します。従来の介護技法とは一線を画し、科学的根拠に基づきながらも人間の感情に寄り添うその手法は、多くの介護現場で高い効果を上げています。
本記事では、ユマニチュードとは何か、その背景や哲学、認知症の症状との関係性、具体的な実践方法である「4つの柱」「5つのステップ」、さらには認知症以外の活用例に至るまで、徹底的に解説していきます。ユマニチュードの奥深い世界を知ることで、より質の高いケアを実現するヒントを掴んでいただければ幸いです。
ユマニチュードとは
ユマニチュードとは、1979年にフランスの体育学者イヴ・ジネスト(Yves Gineste)氏とロゼット・マレスコッティ(Rosette Marescotti)氏によって開発されたケア技法です。「Humanitude(ユマニチュード)」はフランス語で「人間らしさ」「人間であること」を意味し、その名の通り、ケアを受ける人の尊厳や人間性を守ることを目的としたアプローチです。
医療・介護の現場では長らく、食事・入浴・排泄など「作業中心のケア」が優先されてきました。しかし、こうしたケアは時に本人の意思を無視して進められ、不安や恐怖、拒絶、さらにはBPSD(行動心理症状)の悪化を招く原因にもなっていました。
こうした課題に対して、ユマニチュードは「人と人との関係性」に焦点を当てます。単なる作業としての介護ではなく、相手との信頼関係を築きながら、安心と尊厳を提供するケアを重視するのです。その背景には、感情やコミュニケーションの力を科学的に分析し、ケアに取り入れていく哲学が根底にあります。
ユマニチュードは、いわば「技術」ではなく「哲学」です。誰もが持つ自然な行動 ― 見る・話す・触れる・立つ ― を意識的に活用し、相手に「私は大切にされている」と実感してもらうことを目指します。
現在では、フランスをはじめ日本、カナダ、韓国、ブラジルなど世界中の医療・介護施設で広がりを見せており、日本でも厚生労働省が公式にその重要性を認めています。
ユマニチュードが目指す目標
ユマニチュードは「人間らしさ」を軸にしたケア哲学であり、その目的は単なる身体支援ではなく、ケアを受ける人と介護者の双方が心地よい関係を築くことです。言語的・非言語的なメッセージを双方向で交わしながら、良好な関係性の構築を目指します。
具体的には以下の3段階の目標設定が行われます。
1. 心身の回復を目指す
可能ならば「立つ・歩く・自発的な動作」などを促し、身体機能の回復、筋力の向上・関節可動域の拡大を支援します。寝たきりを防ぎ、主体的な生活の回復を図ります。
2. 身体機能と心の機能を維持する
回復が難しい場合は、現状の機能をできる限り維持することに注力。例として、車椅子使用を減らして歩行を促したり、本人が自分の力でできることを優先するような支援を行います。
3. 最期まで寄り添い、尊厳あるケアを提供する
回復も維持も難しい段階では、「最期まで人間としての尊厳を守る」を目標とします。たとえ身体が動かなくても、声かけや清拭などを通じて「あなたは大切な存在」というメッセージを伝え続けます。
認知症の症状とは
認知症とは、病気や障害により脳の機能が低下し、記憶や思考、判断、行動などにさまざまな障害が生じる状態を指します。加齢による物忘れとは異なり、日常生活に支障をきたすほどの深刻な影響を及ぼすのが特徴です。日本では主に高齢者に多く見られますが、若年性認知症のように若い世代でも発症するケースもあります。
認知症は一つの病名ではなく、さまざまな原因によって引き起こされる症候群(症状の集まり)です。代表的な原因疾患には以下があります。
・アルツハイマー型認知症(最も多い原因)
・血管性認知症
・レビー小体型認知症
・前頭側頭型認知症 など
原因は異なっても、多くの認知症に共通して見られる症状があります。これらは大きく2つのカテゴリに分けられます。

① 中核症状
中核症状は、脳細胞の機能低下や死滅によって直接引き起こされる症状です。病気の進行とともに徐々に現れ、本人の努力だけでは改善が困難です。
主な中核症状
・記憶障害
新しいことが覚えられない(短期記憶障害)が最初に現れやすい。進行すると昔の記憶も失われることがある。
・見当識障害
時間・場所・人の把握ができなくなる。自分が今どこにいるのか、今が何時何分なのか分からなくなる。
・判断力・理解力の低下
状況を的確に判断したり、複雑な話を理解したりするのが難しくなる。
・実行機能障害
計画を立てて物事を順序立てて実行する力が低下する。料理や買い物、支払いなどの日常動作に支障をきたす。
・失語・失認・失行
言葉が出てこない(失語)、物の名前や使い方が分からない(失認・失行)といった症状が出る。
② 行動・心理症状(BPSD)
中核症状に加えて現れるのが行動・心理症状(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia:BPSD)です。これは、環境や心理状態、周囲との関わり方によって強く影響を受ける症状です。
BPSDは介護の現場で最も対応が難しく、介護者の大きな負担となりやすい領域でもあります。しかし、BPSDは適切なケアによって改善が可能であり、まさにユマニチュードが最も力を発揮する分野です。
主な行動・心理症状(BPSD)
・徘徊
行き先や理由が分からないまま外出して迷子になる。
・幻覚・妄想
いない人が見えたり、物が盗まれたと思い込む。
・暴力・暴言
介護や声かけに対して怒りをあらわにする。
・拒否
入浴や食事などの介助を拒む。
・うつ症状・意欲低下
活動意欲がなくなり、引きこもりがちになる。
・睡眠障害
夜中に目が覚めて徘徊したり、昼夜逆転する。
ユマニチュードの4つの柱とは
ユマニチュードのケアを支える基本となるのが「4つの柱」です。これは、介護を受ける人との関係性を築き、不安や拒否を和らげ、安心感を生み出すための具体的な行動原則です。
「見る」「話す」「触れる」「立つ」という、誰もが本来持つ人間同士の自然なコミュニケーション行動を体系的に活用していきます。
ユマニチュードの実践は、この4つの柱を常に意識することから始まります。
1. 見る
介護者は、相手の正面に立ち、しっかりと目を合わせることを重視します。
人は視線が合うことで「認められている」「ここに自分がいる」という安心感を得るため、アイコンタクトは信頼関係づくりの第一歩です。
・視線を合わせる時間は*1回平均0.5秒以上*を目安にする
・できる限り正面から優しく見つめる
・視線を外すときも急にそらさず、ゆっくりと外すことで不安を与えない
認知症の方は不意に背後から声をかけられたり、目を合わせずに身体に触れられると、驚きや拒否反応を示すことがあります。
そのため、まずは相手に「私はあなたの存在に気づいていますよ」と示すことが大切です。
2. 話す
言葉は、相手に安心感を与える非常に強い手段です。ユマニチュードでは肯定的な表現・穏やかな声色・ゆっくりした話し方が重視されます。
・否定語(ダメ・違う・無理)をできるだけ使わない
・常に「できますよ」「素敵ですね」「ありがとうございます」などの肯定語を選ぶ
・不安を与える曖昧な言い回しは避け、具体的で優しい説明を心がける
たとえば、入浴拒否がある場合でも「今日は気持ちいいお湯をご用意しましたよ」と声かけすることで、相手が前向きな気持ちになりやすくなります。
声のトーンは落ち着いた音域を意識し、相手に届きやすい音量で話すことがポイントです。
3. 触れる
ユマニチュードのタッチは、単なる介助動作ではありません。優しい接触そのものが安心と愛情を伝える手段と位置付けられます。
・手のひらを広く使い、安定感のある広い面積で触れる
・いきなり触れずに、目を合わせた上でゆっくりと触れる
・関節をひねったり、力を加えすぎない
・冷たい手ではなく、温かい手で触れる
不安や恐怖を感じやすい認知症の方にとって、優しいタッチは「この人は自分に危害を加えない」という安心感に直結します。
逆に乱暴な触れ方や突然の接触は、拒否や攻撃的な行動を引き起こす要因にもなります。
4. 立つ
ユマニチュードでは、可能な限り「立つこと」をサポートすることが重視されます。
立つことで以下のような効果が期待できます。
・筋力・平衡感覚の維持
・転倒予防
・血液循環の改善
・呼吸・消化機能の促進
・自尊心の保持
もちろん無理をして立たせるわけではありません。本人の安全を最優先に、わずかな立位保持でも継続することが重要です。
「自分の足で立っている」という感覚は、認知症患者にとって主体性を取り戻す大切な経験となります。
ユマニチュードの5つのステップとは
ユマニチュードの実践では、先ほど説明した「4つの柱」と並んで重要となるのが「5つのステップ」です。
これはケアの一連の流れを「出会いの準備」から「別れ」まで体系化したもので、関係性を築きながら安心してケアを受け入れてもらうプロセスを示しています。
認知症の方は、突然身体に触れられたり、急に介助を始められたりすると強い不安や拒否反応を示します。
この「5つのステップ」は、そうした不安を最小限に抑え、ケアに対する自発的な協力を引き出すための順序です。
① 出会いの準備
ケアを始める前に、相手に自分の存在を丁寧に知らせ、不安を和らげる準備段階です。
・ドアを3回ノックし、3秒待つ
・反応がなければ再度3回ノック → 数秒待つ
・最後に1回ノックし、「入りますね」と声をかけて入室
・ベッドサイドに到着したら再度声をかける
・視線を合わせ、笑顔で挨拶する
認知症の方は自分が置かれている状況を把握しづらいため、段階的に存在を知らせることが大切です。
② ケアの準備
ケア内容を具体的に説明し、相手の同意を得ることで安心感と主体性を促します。
・相手の正面に立ち、視線を合わせて名前を呼ぶ
・穏やかに「今日はお洋服をお着替えしましょうね」などと具体的に伝える
・「一緒にやりましょう」など肯定的な言葉を用いる
・無理に始めず、相手の表情や反応を見ながら進める
相手が自らケアを受け入れた感覚を持てるように工夫します。
③ 知覚の連結
実際にケアを行いながら、五感を通じた安心感の維持を行います。
・視線:ケア中も適宜アイコンタクトをとる
・話す:実況中継のように作業内容を説明し続ける
・触れる:手のひら全体を使い、優しくゆっくりと接触する
最低でも2つ以上の柱(視線・言葉・接触)を同時に組み合わせて実施する
ケア中も常につながりを保つ意識を持ち続けます。
④ 感情の固定
ケアが終了した際には、ポジティブな感情を定着させます。
・「気持ちよかったですね」「よく頑張りましたね」と優しく声をかける
・笑顔で肯定的な表情を見せる
・相手の努力を認め、自己肯定感を高める言葉を用いる
ポジティブな体験として記憶されることで、次回のケアをスムーズに受け入れやすくなります。
⑤ 再会の約束
ケアの終わりに、次回のケアに希望や安心感を持ってもらう声かけを行います。
・「また一緒に歩きましょうね」「次も楽しみにしています」などの前向きな言葉をかける
・安心して次回を待てるような期待感を持たせる
ケアを「楽しかった体験」「安心できる時間」として締めくくり、継続的な信頼関係の構築につなげます。
認知症以外のユマニチュードの活用方法とは?
ユマニチュードは、もともと認知症ケアを中心に開発されたケア技法ですが、その基本にある「人間らしさ(Humanitude)」を守るという哲学は、認知症以外のさまざまな医療・介護現場にも応用可能です。
ここでは、現在実際に活用が進んでいる分野と、理論的に期待されている応用例を整理して紹介します。
① 終末期医療(看取りのケア)
人生の最期を迎える患者に対しても、ユマニチュードの技法は役立っています。恐怖や孤独感を和らげ、穏やかな最期を支えます。
・視線を合わせ、穏やかな声かけを続けることで不安を軽減する
・優しい接触によって「大切にされている」と実感してもらう
・言葉が交わせなくなっても、非言語的な関係性を最後まで維持する
ホスピスや在宅看取りの場面でも、患者と家族双方の安心感につながる事例が報告されています。
② リハビリテーション分野
「立つこと」を重視するユマニチュードの考え方は、リハビリでも効果を発揮しています。
・自立動作の継続を促し、寝たきり予防に役立つ
・立位保持を支援し、筋力やバランス感覚の低下を防ぐ
・リハビリへの主体的な参加意欲を高める
患者の「できた」という自信を育てることで、リハビリの継続率やモチベーション向上にもつながっています。
③ 精神疾患・発達障害分野(理論的応用段階)
精神的に不安定な方や発達障害のある方への支援にも応用が試みられています。
・不安や緊張を和らげ、落ち着きを取り戻しやすくする
・肯定的なコミュニケーションで信頼関係を築く
・非言語的な安心感(視線・接触)で情緒の安定を支える
まだ研究段階ですが、臨床の現場では少しずつ実践が広がりつつあります。
④ 小児医療(理論的応用段階)
小さな子どもにも、ユマニチュードのアプローチは有効と考えられています。
・医療処置に伴う恐怖や不安を和らげる
・安心感を与え、治療への協力を引き出す
・非言語的コミュニケーションが多い幼少期に特に適している
一部の医療現場で導入が進みつつあり、今後の効果検証が期待されています。
⑤ 介護職員のストレス軽減・職場環境の改善
ユマニチュードは、介護を受ける人だけでなく、介護者の負担軽減にも効果をもたらしています。
・困難ケース(拒否・暴言・暴力など)の減少傾向
・ケアの満足度ややりがいの向上
・職場内のチームワークやコミュニケーション改善
・一部の研究では、介護職員のストレスやバーンアウトの軽減が確認されている
職場全体の雰囲気改善にもつながると現場から報告されています。
まとめ
ユマニチュードは、単なる介護技法を超えた「人間関係のケア哲学」です。
認知症をはじめとする介護の難しさは、相手が何を感じているのか分かりにくいことにあります。しかし、ユマニチュードはその不安や恐怖の背景に着目し、「見る」「話す」「触れる」「立つ」という誰もが持つ自然な人間のコミュニケーション行動を体系化しました。
この技法は、「4つの柱」と「5つのステップ」によって具体化され、現場で誰でも実践可能な形に整理されています。認知症ケアで多くの成果が報告されるだけでなく、終末期医療、リハビリ、小児医療、精神障害、介護職員の支援など、幅広い分野への応用が進んでいます。
特に近年注目されているのは、介護を受ける側だけでなく介護を行う側のストレス軽減や職場環境の改善にも効果をもたらしている点です。ユマニチュードは、「ケアは苦しいものではなく、喜びに満ちた対話である」という理念のもと、介護の世界を少しずつ変えつつあります。
今後は、さらに科学的エビデンスの積み重ねが進み、より幅広い医療・介護現場に導入されていくことが期待されています。誰もが「大切にされている」と実感できるケア環境の実現に向け、ユマニチュードはこれからも大きな役割を果たし続けるでしょう。
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